あなたは、今日という一日をもう一度過ごしたい、と思いますか?
思います、と答える人も多いかもしれませんが、無理な話ですよね。当たり前ですが、今日という一日は返ってきません。
今日は、まったくやる気のない生徒が変わった一言、というお話です。
家庭教師の思い出
私が家庭教師で教えていたころ、どうしても無気力な生徒がいました。何にも興味が持てないという感じで、ポカーンと口を開けて、いつもボケーっとしていました。かろうじて部活のサッカーはやっているようで、サッカーは興味を持てるようでした。
勉強も、もちろんやる気はない。ちょっと頑張ろうと思っても、中2なのに、Sundayを覚えるのに1週間かかったのを覚えています。
勉強はどうであれ、性格的にはとても素直で、優しい子でした。そして、感受性は豊だったと記憶しています。
中学校では、毎日の学習の記録、今日の日記、のようなものを記録し、学校の先生に提出しているようでした。
「ちょっと、それ見せてよ」と、生徒に言ってみました。「個人情報」と言えばそうですし、日記のようなものなので、他人には見せたくないものだと思いますが、「別にいいですよ」と見せてくれました。
そこには、今日やった勉強、家庭教師でやった勉強などが書かれていました。
その中でも、「今日一日の日記」という欄には、毎日、毎日、同じことが書いてありました。
「今日も特に何もなかった」
何もなかった一日は
何もない一日ほど、幸せな日はない・・40代が近くなると、そんな気持ちになります。何事もなく、今日という一日が過ぎた。そんな、何事もない一日に幸せを感じられるのは、大人ならわかってきますよね。
けれど、中学生、高校生がそんなこと言っていたら、どんな青年だよ・・ってびっくりしてしまいますよね。
やはり、中学生が「特に何もなかった」と書くのは、無気力が原因と思います。
その中学生に、私が言ったのは、
「君が、特に何もなかったという一日を、どうしても生きたかった人もいるんだよ」
病気で昨日亡くなったお父さんは、今日も、子供や奥さんの顔をどれだけ見たかったことか。
昨日亡くなったお母さんも、今日、どれだけ子供の手を握りたかったか。
不慮に昨日亡くなった子供は、今日も、友達とどれだけ遊びたかったことか。どれだけお母さんに会いたいことか。
今日という一日を、どうしても生きたかった人がいるんだよ。
君が特に何もなかった、という一日も、そういう人達の「一日」と同じ一日なんだ。もっと大事に今日を生きてみませんか?
と、いう話をしました。
その生徒なりに、感じることがあったようです。
次に会ったときから、少し目つきが変わり、日記の内容も変わってきました。
「今日は苦手なところの勉強をして、少しわかるようになった」
もともと料理に興味があったらしく、その後、地元の職業科のある高校に進み、学んでいます。
日本一の先生でも伸ばせない生徒
誰でも、変われるわけではありません。
吉田松陰(よしだしょういん)という方の名前を聞いたことがある人は多いと思います。幕末の時代の思想家で、「松下村塾」という個人塾を作りました。その塾からは、高杉晋作、久坂玄瑞など、幕末の志士たちを生み出しました。その中には、初代内閣総理大臣、伊藤博文も含まれていました。
そのような、そうそうたる卒業生を輩出しまくった吉田松陰先生でしたが、どうしても育たなかった生徒が3人いたそうです。
その3人は明治まで生きましたが、まったく出世せず、行方不明になったりしたそうです。
その3人に共通するのは、感動・感激するという感情、自分を奮い立たせる「憤」が欠けていたそうです。感情があまりなかったそうです。
感動できない生徒は、どんないい先生でも伸ばすことができない・・私も経験的にとてもわかります。
どんなに勉強だけさせても、心が動かない子供は伸びません。
大切なのは、感情が豊かに動くこと。今回紹介した生徒は、心の感受性があったのだと思います。
勉強も大切。けれど、たまには感動する映画をみたりして、涙を流すことがどれだけ大事か・・長い休みには、家族で映画を見るのも良いですね。