小学高学年の時だったと思います。
私は、「悪魔」に取り憑かれました。
確かに声がしたのです。
「不幸な人に同情することは、同じ状態を引き起こすよ。だから、事故現場でもなんでも、見たら『ざまあみろ』って、思えばいいんだよ。」
こんな声が、脳内に響いていたのです。
聞いた場所も覚えています。
小学校に行く途中の、ちょうど家から中間くらいの場所。
高速道路の高架下の近くでした。
それからというもの、
その「声」が私から離れず、ずっと忘れられない記憶として残っています。
それからと言うもの、
私は不幸なものを見たり聞いたりするにつけ、
「ざまあみろ」という頭に湧いてくる「声」を打ち消そう、打ち消そうと、もがいてきました。
不幸な人を見ても、頭の中でボソッと「ざまあみろ」と言う声が聞こえては、
自分はなんて悪い人間なのだ。と嫌悪したものです。
「一般的な」「ざまあみろ」の正体 シャーデンフロイデ
大人になって、ググってみると、
「この感情は、人間としては当然」とも書いてありました。
ドイツ語では、「シャーデンフロイデ」というそうです。日本的に言うと、「人の不幸は蜜の味」というやつでしょう。
原因は
自己肯定感の低さ、、云々と心理学的に説明されていましたが
私には、どうもピンとこない。
答えは自分の中に
確かに、自分は自己肯定感が低く、完璧主義的なところがあるので、あがり症になったり、軽い社会不安障害的な人間ではあります。
だけど、私は、確実にあのとき、「聞いた」のです。
だから、心理学的な意味づけはあまり意味がなく(私にとって)、もやもやと、脳内の「ざまあみろ」と戦ってきたのでした。
結局、外の情報は意味をなさなかった。
それなら、内面と対話するしかない。
だからと言うわけではないのですが、私は瞑想を習慣にしています。
今日の瞑想は、いつもよりも長い時間が経っていました。
瞑想で聞こえた「ざまあみろ」の解決策と、これからの生き方
瞑想中、こんな声が聞こえたのです。
「自分だけ得すればいいと思っていないか?」
この言葉にピンときました。
「他人をざまあみろ」と思ってしまうのは、
他人の不幸が嬉しいというより、「自分だけは安全でいたい」と思っているからではないか。
戦争が起きています。
みんな、心のどこかで、「自分が安全であればいい」という気持ちがあるのではないでしょうか。
少なくても、私はそう思っていたと思います。
自分が、もしくは、家族が安全であれば、それでいい。
食糧危機が来ても、自分さえ、食糧があればいい。
備蓄しよう。
畑を作ろう。
「自分」が食べられるために。
結局、「我」だったのです。
みんな苦しい。
金がない。
モテない。
コンプレックス。
不運。
なんで自分ばっかり。って、思うけれど、実は、みんな同じような悩みを抱えている。
成功しているように見える人だって、
何かは辛さを抱えている。
自分だけではないんだ。
みんな苦しい。
目の前の人の不幸。
明日の自分の不幸かもしれない。
そう思ったら、不運を「引き寄せる」?
自分だけが得する「引き寄せの法則」なんて、偽物かもしれませんね。
ワンネス
そのタイミングで、ワンネスという言葉が浮かびました。
他人も、自分。
みんな一つ(ワン)
他人の不幸を、切り離さず。
自分のことのように寄り添い、助ける。
そんな御霊の人が、これからの時代を生き抜くのではないでしょうか。
自分の中の痛みを抱きしめて
他人の痛みも、同じように抱きしめて
それができるかな、自分・・
最近よく言われるように、神社の御神体は「鏡」
「かがみ」真ん中の「が」つまり「我」を抜けば、
「かみ(神)」になる。
これからの時代はみんなが神になる時代です。